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小姑の棲む部屋

 

 誰にだって、鬼門はある。
 近寄ると必ずいやな目に遭う場所が。僕にとってのそれは、社内にある。
 僕の主な行動拠点・営業事務所の丁度上に位置する
3Fデザイン製作課がソレだ。
 デザインというと大それた仕事に聴こえるけれど、企業用伝票印刷がメインのうちの会社では自ずと伝票のデザインが中心となってくる。つまるところ、独創性よりは機能性、華美な装飾よりはごくごくシンプルなものが求められた。学生時代、美術は万年
5段階評価で3だった僕がイメージする、デザイナーという華やかな職業名から想像する仕事とは、大きくかけ離れていた。いや別に、うちの会社のデザイナーを否定するわけじゃないけれど。田舎の小さな印刷屋兼文具店に勤めるデザイナーとしては、立派な仕事なんだと思う。小さな、とはいっても地元では割と名の通った会社だ。社外で自分が担当した伝票が使われているのを見ると、なんとなく嬉しい気分にもなる。(それに、従業員23人の家族経営も少なくない印刷業にしてみれば、従業員数60人のうちは立派な中企業にあたるだろう)。
 僕には計り知れない苦労なんかもあるんだろうと思う。思うけれど、極力デザイン室には近寄りたくない。
 しんとした、ただキーをリズミカルに叩く――時々、指先が見えないほどに速い――音とマウスクリックだけが響く空気が苦手というのも確かにあった。
 それでも僕がデザインに近寄りたくない理由は別にある。
 階段を上る度、
3Fに近づく度に、気分はどんどんと地下へと潜ってゆく。際限なく、どこまでも、どこまでも。気分を落ち着かせるためにも、腕時計を覗いて見る。微妙な時間帯だった。定時はとっくに過ぎてはいるものの、窓の外はすっかり闇に包まれている。デザインは忙しい時は日付が変わるまででもずっと残って仕事をしているけれど、暇な時はこの時間には誰もいない。とはいえ、明かりが漏れているのは吹き抜けになっている営業事務所からも確認済みだった。問題は誰が残っているか、だ。全部で9あるくじのうち、はずれくじは2つだけ。そのうち1つは大の残業嫌いで定時帰りに命を掛けているような人種だ。大丈夫。9分の1、どう考えたって遭遇する確率の方が低いんだから。
 息を吸い込んでデザイン室の扉をノックする。
「すみません、
篠原(しのはら)です」
「はーい、どーぞ」
 掠れた投げやりな声の響きに、僕はレアな方のはずれくじを引いてしまったことを悟った。
「今、はずれだって思ったっしょ?」
 待ち構えていたように内側から空いた扉隙間から、
片桐(かたぎり)さんが顔だけを覗かせた。肩より少し短いところでざっくりと切られたうねうねの明るい赤茶の髪が揺れている。
「そんなこと思ってませんよ」
 たとえ思ったとしても――実際思ったけれど――、本人の前でそんなこと言える馬鹿はいない。大体片桐さんは僕より
4年も先輩なんだから。……まぁ、年上年下構わず、終始態度が大きい人だけれど。
「あー。口じゃなんとも言えるよね。んで、用件は?」
 デザイン室の中に誰がいるのか僕に分からないよう邪魔をしている風にも見える――実際そうなんだろうけど――風体のまま、彼女は尋ねてきた。僕はなるべく早くここを立ち去ることだけを考えることにして、
鈴木(すずき)さんいますか?」
 本題を切り出した。ただ、片桐さんは獲物が罠にかかったとばかりに、爛々と瞳を輝かせてみせる。
「鈴木さんってのは、どの鈴木さんなのかしら?」
 言葉尻が一気にオクターブ上がった。付け入る隙を与えてしまったことに今更気付いても、もう遅すぎる。
「経理の鈴木さん? デザインの鈴木さん? 製造で
4色機まわしてる鈴木さん? 製本の鈴木さん? それとも……」
 社内の「鈴木さん」を列挙してみせた後、意味ありげに僕の顔を覗き込んで見せた。
 もう次の言葉は安易に想像できた。というより、その話題こそが、僕が片桐さんを苦手とする第一の理由でもあったから。
「最近めっきり綺麗になったって評判の、工務部生産管理課紅一点、鈴木
琴子(ことこ)さんのことかしらん?」
 想像どおりの言葉に、内心げんなりしながら僕は淡々と返答を返すことだけに全神経を注いだ。琴子さんは片桐さんの同期入社の僕の先輩で、彼女でもある。ここで戸惑ってみせたりしたら、この人の思う壺だ。
「デザインの鈴木
(あや)さんです」
「あれま、浮気? 琴に言いつけてやろっかな」
「仕事の話です」
 声に動揺はかけらも入らなかった。とはいえ、気を抜いたらどこで寝首をかかれるかわからない。
「んなのわかってるって。ちょっと遊んだだけじゃん。見ての通り、彩ちゃんは帰ったよ。ここにいるのはわたしと
剣地(つるぎじ)だけー」
 そこでようやく扉に張り付くのをやめて、デザイン課の中を見せてきた。
 なんてことだ。
2枚しかないはずれくじだけをきっちりひいてしまうなんて。こめかみからすっと冷や汗が流れ落ちる。
 片桐さんは「
2人きりのラブラブ残業ー。あーあ、隠してたのに噂になっちゃうねー」と一番奥の席に座る剣地さんに話し掛けてみせたけれど、こちらを眼鏡ごしの氷点下の眼差しで一瞥して「馬鹿か」とだけ言うとそのままMacに向き直った。口達者で抜け目ない片桐さんとタイプは違うものの、剣地さんは僕の苦手な人だった。何より、いかにもデザイナーというような原色赤の太フレームの眼鏡は個性的な――丁度子供の受験に力の全てを注ぎ込む教育ママがつけていそうなもので、彼の得体の知れなさを強調しているようにも見える。
「では、明日改めて説明に来るんで、
MO渡してもらっていいですか?」
 逃げるように、用件だけを渡して帰ろうとしたものの。
「……何のつもりですか?」
 片桐さんの手は
MOではなく僕の腕をワイシャツ越しにがっちりと掴んできた。
「何のつもりって、決まってるじゃない。お姉さんたちとちょーっとお話してかないかなぁ。あんたのだぁい好きな“琴子さん”のお話」
 歌うように、生き生きとした声が耳元で響く。僕はどちらかといえば背が高い方だったけれど、長身・
10センチをゆうにこえたヒールのコンボの片桐さんは、女性とはいえ僕と目線が限りなく近い。嬉々したと光を帯びた双眸から思わず視線を逸らした。
「まだ、仕事が残ってるんで」
 本当は、もうここから逃げ出せさえすれば今日のノルマは終わりだ。それでも、僕は必死で腕を振り払おうとしたけれど、
「生憎、こっちの用事も急を要するもんなんだなー。これが」
 短い形のよい爪に丁寧に塗られたオレンジのマニキュアが、白いワイシャツに食込んで離さない。男のはずの僕よりもずっと力強いものだった。
「で。琴とはどこまでいってるの?」
「どこまでって……」
 言い淀んだ僕に漬け込むように、片桐さんがぐいと身体を一歩前に出した時のことだった。
「……お前、琴子の誕生日を忘れたってのは本当なのか?」
 ひんやりとした低い声が、一気に話題を具体的なものに変えてしまう。
 助かったとは到底思えない、むしろ核心を衝いた話題に血の気が背中からゆっくりとひいてゆく感覚が自分でもよくわかった。
 片桐さんは口を窄ませ、僕の腕を解放した。
「あーあ、いきなり本題言っちゃった。もうちょっといろいろ聞き出してからって言ったのに」
 自分の席に座った剣地さんの方を向いて、完全に僕への束縛は解いていたけれど、逃げ出すことは出来なかった。それだけ、僕をその場に留めるのに十分な力を含んだ言葉だった。
「片桐に任せてたら、日が暮れるだろ」
「あらま、激失礼。わたしは単にコミュニケーション取るのが好きなだけだってば」
「人をからかうのが、の間違いじゃないのか?」
 
2人のやりとりの隙に「言い訳」を考える僕を見透かしたように、タイミングよく僕に向き直って見せる。
「安心しきってるようだが、……こっちの質問に対する答えは用意出来たか、篠原?」
 言葉の冷酷な響きに反して、熱い怒りの炎がたなびく細い目から視線を逸らすことしかできない。
「あーあ、はじまっちゃった。剣地、琴のことになると熱いねえ」
 茶化すように挟まれた片桐さんの言葉を気に留めるでもなく、
「どうなんだ?」
 念を押す。
 もう、彼にどんな言い訳を用意しても無駄なことはわかっていた。
 掌に脂を含んだ嫌な汗が滲む。
「本当です」
 静かな空間に響く自分の声が、他人のもののように聴こえる。
 ただ、俯いて
2人から目を逸らして言うことしかできない。
「僕は、琴子さんの誕生日を忘れてました」
 彼女の誕生日を忘れてしまっていたのは、まだひと月も立たないほどついさっきのこと。
 自分で口に出すことで、忘れかけていた罪悪感と居たたまれなさとが一気に再燃してきた。
「まさか、本当にそうだったとは……男として最低だな」
 怒りを通り越して呆れを含んだ口調に、僕は顔を上げる。
「え? 琴子さんから聞いたんじゃ」
 間の抜けた声を上げると、片桐さんは僕の足首を思い切り蹴り上げた。
 痛みより先に全身に伝わった痺れに、僕はしゃがみこむ。
「まさか。琴が、んなこと愚痴るような子に見える? わたしらがあんたのことで聞いたのは、付き合い始めたって報告だけ。あとはいつだってぼやーっと笑ってるだけだよ」
 いつも言葉に人を揶揄する含みのある片桐さんにしては珍しく、怒りの感情が先走るように早口でまくし立てた。
「じゃあ、どうして」
 自分でも、小学生のような間抜けな切り替えしだと思った。剣地さんは僕にも聞こえるようにおおげさにため息をついてみせた。ずっと胸のまえで組んでいた腕を解き、組替えるともう一度ため息を零す。
「琴子のな。誕生日の晩に、同期
3人でメシ食いに行ったんだよ。仕事が終わってから誕生祝いの電話をかけたら、何も予定がないって言ったからな。彼氏と自分の誕生日に一緒に帰った女が“予定がない”ってことは、……ようするにそういうことだろ?」
 はっとした。
「あの日の琴、妙にソワソワしててね。携帯が鳴る度にびくっとして、相手確かめて落胆して……見てて本当、痛々しかった」
 僕は何を勘違いしていたんだろう。
「まぁ、翌日にはけろっとしてたから、何かしらフォローはしたんだろうが……」
 罪悪感じゃない。男の沽券とかじゃない。考えなくちゃいけないのはそんなこととは違う。覚えておかなくちゃいけなかったのは、そんなちっぽけなこととは違う。
 何より僕が考えないといけなかったのは、琴子さんの気持ちだ。
 そんな簡単なことを、どうして今まで忘れていたんだろう。
「覚えといて欲しいんだよねー。今度琴を悲しませるようなマネしたら、……わたしら何するか自分でもわかんないから。覚悟、しといてね?」
 面白がっていたわけじゃない。ただ怒っていただけじゃない。僕よりずっと琴子さんのことを考えていた
2人の言葉に、僕は目が覚める思いだった。
「あれ、どうしたの? 珍しい組み合わせだね」
 仕事ごとの工程が印刷されている作業指示書のファイルを抱えた琴子さんが、僕の脇をするりと抜けてデザイン室の中へ入り込む。ファイルを所定の棚に置くと、もう一度室内を見回して、「ほんと、珍しい」と繰り返した。
 自分のことばかりでいっぱいいっぱいだった僕は彼女が階段を上ってきたことにちっとも気付いていなかったけれど。いつのまにか僕から距離を取っている片桐さんや、何もなかったようにパソコン画面に釘付けの剣地さんの様子から、
2人は彼女が来たことに気付いていたことがわかった。
「いやー、琴の大事な大事な篠原くんと、親睦を深めようかなーっと。ねー、剣地」
 さっきまでのドスの効いた声の名残は微塵もない、飄々とした響きの声だった。
「ああ。泣かされたらすぐ報告しろよ。俺がとっちめてやるから」
 重低音の、それでも温もりのある――とはいえ、内容はあいかわらずおっかなかったけれど――穏やかな口調は別人のように思えた。
「よくわからないけど」琴子さんは僕をちらりと振り返って微笑んだ。「もし泣かされたら一番はじめに報告するよ」
 ……とても、物騒な話題だな、おい。
 一人引きつる僕には構い成しに、朗らかな笑い声がデザイン室に満ちていた。

 月のない、新月の帰り道。
「あの
2人、何か変なこと言ってなかった?」
 琴子さんは顔を上げて僕に尋ねる。
 いつもと同じ、
2人きりの帰り道。
 琴子さんが片桐さんと剣地さんを誘った時は背筋が凍る思いだったけれど、幸い
2人は仕事が残っているからと断ってくれた。
 これ以上、今の僕があの
2人に関わるのは許容範囲を裕に超えている。
 とはいえ、
「や、別に」
 当然のように、そう答えることしかできなかった。
「ひょっとして、苦手、だったかな? なんだか居心地悪そうに見えたけど」
 思いがけない鋭い言葉に、僕は思わず視線を泳がせる。
 琴子さんは人の目をまっすぐに見て話す人だ。
 今日が新月だったことと、街灯の明かりがない場所だったことに感謝しながら。
「そんなことないよ。片桐さんも剣地さんも、琴子さん思いのいい人たちだよね」
 僕は引きつる顔の筋肉とは裏腹な言葉を口から紡いだ。
「でしょう」
 多分、綻ぶように笑んでいるんだろうけれど、なんとなく面白くない。
 あの
2人は僕よりずっと琴子さんをわかっていて、琴子さんも僕よりずっとあの2人をわかってる。
 今は駄目でも、いつかはあの
2人に勝ってやる。
 見当違いなことに闘志を燃やす僕に構いなしに、琴子さんはしっかりとした口調で言った。
2人とも、自慢の同期なの」

 

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